「佐伯先生のあとを継いでもらえませんか」

「なんだと?」

「ですから、ここを引き継いでほしいんです」

「おぬしがいるではないか」

「わたしは家督を継いで、いずれ奉行所に勤める身です。手習い師匠になるわけにはいきません」

「そりゃそうかもしれんが……」

 藤次郎はますます困りはてた。むろん、秘伝白雨ともども、引き受ける気などない。

「まあ、よいではありませんか」

 脇でなりゆきを見守っていた雪野が、おだやかに口を開いた。

「そのようにつぎからつぎへと持ちかけては、秋吉さまがお気の毒ですよ。秋吉さまには秋吉さまのお考えがおありでしょうし、少し待ってさしあげたら」

 庄之助はいますぐ返事を聞きたかったらしく、不服そうだったが、姉の言葉にしぶしぶ頷いた。

「お気になさらないでくださいね」

 別れ際に、雪野が小声で告げた。三人で裏店を出て、両国広小路まで来たときだ。庄之助を先に歩かせ、にぎわう人通りに紛れて、雪野はさりげなく藤次郎の横に並んだ。

「押しつけるつもりはありません。無理なら無理と、きっぱり断ってくださったほうが、庄之助も堀川の小父さまも諦めがつくと思います。あとのことは、わたくしがうまく取りなしておきますから……」

 辞儀をして、きびきびと立ち去る雪野の後ろ姿を見送りながら、藤次郎は太い溜息をついた。

――雪野どのは、おれを買ってはいないようだな。

 煩わしいことは、いっさい引き受けたくなかった。竹光を差している身で今さら剣を握る気になどなれないし、うるさい餓鬼ども相手に手習い師匠など論外だ。

 だが、鼻から藤次郎に期待を寄せていない雪野の態度が、藤次郎の心を思いのほか暗くした。

――面倒なことを押しつけおった。

 死んだ佐伯数馬に、恨み言のひとつも言いたくなるというものだ。

 広小路の芝居小屋から、ぞろぞろと人が出てきた。暮れ始めた弱々しい日の光が、絵看板を白っぽく照らしている。軒を連ねる小屋掛けの上で、色のさめた幟が川風にはためくのを眺めながら、藤次郎は混雑する人の間をくぐり抜け、橋へ向かった。

 長い橋の中ほどまで来た頃には、その小さな追跡者に気づいていた。庄之助を訪ねて福井町へ行ったとき、すれ違いに厳しい視線を投げてよこした梅吉である。

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